バカラ/Baccaratのミニ知識
中世ガラスの変遷とクリスタルガラスの誕生
8世紀頃から、西ヨーロッパ各地でガラスの製作が盛んになりました。12世紀頃になると教会の窓にゴシック調のステンドグラスが備えつけられるようになります。13世紀頃には原料の不純物を除いた無色透明なガラスがドイツやスイス、イタリアに伝えられます。
中世のガラス製造には大量の燃料が必要なため、ガラス工房は森に置かれ、燃料を木材・薪に頼っていました。そのため、その森林を燃やし尽くしたら次の森林に移り、ガラス工房は森を転々と移動していました。
ヴェネツィアのガラス技術は名声を高めたのは良質の原料を入手できたことでした。しかし大火事の原因や機密保持の観点から1291年にムラーノ島に工房と職人を移します。ムラーノ島では細密な製品が数百年にわたって製造され、ヨーロッパのガラス産業を担っていました。13世紀よりヴェネチアのガラス職人によって培われてきた透明なガラスを製造していました。しかしペストの流行や政治・経済の衰退により16世紀末にはヴェネツィアは透明ガラスの専売権を失います。そのため多くの職人が15世紀〜17世紀にかけてヨーロッパ全土に拡散・移住します。その中に現在のチェコ・ボヘミア地方で更に透明なガラスが開発され、17世紀前半プラハの宝石カッティング職人のカスパル・レーマンによるエングレーヴィング技術がガラス細工への応用に考案されました。
その後長い間大きな発展はありませんでしたが、1671年イングランドでジョージ・レイヴンスクロフトがクリスタルガラスの製造に成功し特許を取得します。ガラス工場では燃料が木材から石炭に代わりつつあり、その影響で新しい溶剤の開発として酸化鉛が試され、その配合により偶然出来たと言われています。次第に純度の高い原料が加工され、クリスタルガラスの品質も向上し、時代背景や資材の調達においてイングランドがベネチアに代わって18世紀〜19世紀のガラス製造の中心地となっていきました。また、イングランドのガラス製造技術はヨーロッパ・北米・インドまで及び、世界を席巻していきます。
18世紀後半フランス東部ロレーヌ地方の統主で司教のモンモレンシー・ラバル氏が自国にガラス製造工場が無いのと産業の復興を考慮し、工場設立を当時の国王ルイ15世に申請し、1764年、ルイ15世の認可を受けて創業します。徐々に技術を向上させ成長していったバカラは1785年にはヨーロッパ第3位に急成長しました。
しかし1799年に貴族の王政に対する反発に端を発したフランス革命が起こり、ガラス工場は一時生産・開発が停滞します。バカラがクリスタルガラスを生産し始めたのは1817年と言われています。
1823年、国王ルイ18世はバカラにグラスセットを注文し、1825年にアルクール公爵家の為に作られたアルクールシリーズはバカラを代表するシリーズとなり、この頃よりフランスの王侯貴族の間で人気を博していきます。またアルクールシリーズはバカラのアイコン的存在として現在でも購入可能なシリーズの一つです。
1855年には第一回パリ万博にて名誉金賞を受賞。第二回(1867年)、第三回(1875年)にもグランプリを受賞し、その完璧な技術と芸術性はバカラの名を世界に知らしめることになります。
国内外の王室から圧倒的な支持を受ける
その後、ヨーロッパの王侯貴族に愛され続け、1896年ロシア最後の皇帝・ニコライ2世からもウォッカ用のグラスの他キャンドルスタンドやシャンデリアに及ぶ製品の受注を受けます。ちなみにウォッカグラスの注文は個数ではなくトン単位だったそうです。(その理由は乾杯後、ウォッカを飲み干しグラスを割るという習慣があったからだそうです。なんとも豪快ですね・・・)
ニコライ2世へ納められたバカラ・エルベフシリーズ(製造:1890年-1920年)は現在でもコレクターが多くヴィンテージバカラとして当店でも高値で買取致しております。
現在でも王者のクリスタルと言われるバカラですが、ルイ18世やニコライ2世だけでなく、エジプト最後の王・ファールーク、サウジアラビア国王ファイサル、モロッコ・ムハンマド5世、シャム(タイ)・ラーマ国王、インド・マハラジャ、アメリカのルーズベルト大統領やJ.F.ケネディ、そして日本の皇室も菊の文様が施されたテーブルセット一式を発注され、納められています。
また、クリスタルガラスの欧州規格では珪砂、カリウム、ソーダ灰、酸化金、酸化鉛の配合で作られています。
一般的には鉛の含有量が上がるほど光の透明度や屈折率が高くなり、また比重が大きくなるとともに打音が澄んで余音が残ります。このため、特にワイングラスなど工芸用では酸化鉛が多いものが好まれますが、その実現には、溶解・成形・徐冷・加工などの高度な製造技術や、鉄分など不純物の除去や他の混合物の配合など全体的な化学組成の調整が重要になり、一概に鉛の含有量が高ければ良いという訳ではないそうです。(ウィキペディアより)
1971年にアレテ(行政命令)が発布され、EC(欧州経済共同体)全域で定義されたクリスタルガラスは、光の屈折率がnD1.520以上、酸化鉛含有率が24%以上とされる中、バカラの酸化鉛含有率は30%と言われています。日本の江戸時代から明治時代に製造されたアンティークの切子は欧州のクリスタルをモデルに製造されていましたが、酸化鉛の含有率は34%と高く、手で触った感覚にごく僅かに滑り感があり、バカラの製品にみる、見た目にも触れた感じも全てにおいてクリアな感覚に感動した事を思い出します。
また、フランス大統領より与えられる称号、通称M.O.F(フランス最優秀職人)を50人以上輩出し、現在でも二十数名が在籍しているそうです。このM.O.Fの称号のレベルに達するまで少なくても20年以上掛かるといわれ、技術者の日々の努力の積み重ねとその技術者を保護するバカラ社の姿勢は5代目ゴダール・デマレ氏の掲げる理念が現代にも生き続け、商品に対する信頼と実績が今日のバカラ製品を通して手に取り感じることが出来、バカラ製品に出会う度に感動があります。
8世紀頃から、西ヨーロッパ各地でガラスの製作が盛んになりました。12世紀頃になると教会の窓にゴシック調のステンドグラスが備えつけられるようになります。13世紀頃には原料の不純物を除いた無色透明なガラスがドイツやスイス、イタリアに伝えられます。
中世のガラス製造には大量の燃料が必要なため、ガラス工房は森に置かれ、燃料を木材・薪に頼っていました。そのため、その森林を燃やし尽くしたら次の森林に移り、ガラス工房は森を転々と移動していました。
ヴェネツィアのガラス技術は名声を高めたのは良質の原料を入手できたことでした。しかし大火事の原因や機密保持の観点から1291年にムラーノ島に工房と職人を移します。ムラーノ島では細密な製品が数百年にわたって製造され、ヨーロッパのガラス産業を担っていました。13世紀よりヴェネチアのガラス職人によって培われてきた透明なガラスを製造していました。しかしペストの流行や政治・経済の衰退により16世紀末にはヴェネツィアは透明ガラスの専売権を失います。そのため多くの職人が15世紀〜17世紀にかけてヨーロッパ全土に拡散・移住します。その中に現在のチェコ・ボヘミア地方で更に透明なガラスが開発され、17世紀前半プラハの宝石カッティング職人のカスパル・レーマンによるエングレーヴィング技術がガラス細工への応用に考案されました。
クリスタルガラスの誕生
1295年イタリアのムラーノ島で、バロビエ家がガラス製造をスタートし、1450年頃“水晶のようなガラス”と評判を呼んだ「透明フィルム」(クリスタルガラス・クリスタッロ)を発明・製造します。その後長い間大きな発展はありませんでしたが、1671年イングランドでジョージ・レイヴンスクロフトがクリスタルガラスの製造に成功し特許を取得します。ガラス工場では燃料が木材から石炭に代わりつつあり、その影響で新しい溶剤の開発として酸化鉛が試され、その配合により偶然出来たと言われています。次第に純度の高い原料が加工され、クリスタルガラスの品質も向上し、時代背景や資材の調達においてイングランドがベネチアに代わって18世紀〜19世紀のガラス製造の中心地となっていきました。また、イングランドのガラス製造技術はヨーロッパ・北米・インドまで及び、世界を席巻していきます。
バカラの創業
その頃フランスは度重なる国内外の戦争に疲弊し、産業・経済共に低迷していました。18世紀後半フランス東部ロレーヌ地方の統主で司教のモンモレンシー・ラバル氏が自国にガラス製造工場が無いのと産業の復興を考慮し、工場設立を当時の国王ルイ15世に申請し、1764年、ルイ15世の認可を受けて創業します。徐々に技術を向上させ成長していったバカラは1785年にはヨーロッパ第3位に急成長しました。
しかし1799年に貴族の王政に対する反発に端を発したフランス革命が起こり、ガラス工場は一時生産・開発が停滞します。バカラがクリスタルガラスを生産し始めたのは1817年と言われています。
1823年、国王ルイ18世はバカラにグラスセットを注文し、1825年にアルクール公爵家の為に作られたアルクールシリーズはバカラを代表するシリーズとなり、この頃よりフランスの王侯貴族の間で人気を博していきます。またアルクールシリーズはバカラのアイコン的存在として現在でも購入可能なシリーズの一つです。
1855年には第一回パリ万博にて名誉金賞を受賞。第二回(1867年)、第三回(1875年)にもグランプリを受賞し、その完璧な技術と芸術性はバカラの名を世界に知らしめることになります。
国内外の王室から圧倒的な支持を受ける
その後、ヨーロッパの王侯貴族に愛され続け、1896年ロシア最後の皇帝・ニコライ2世からもウォッカ用のグラスの他キャンドルスタンドやシャンデリアに及ぶ製品の受注を受けます。ちなみにウォッカグラスの注文は個数ではなくトン単位だったそうです。(その理由は乾杯後、ウォッカを飲み干しグラスを割るという習慣があったからだそうです。なんとも豪快ですね・・・)
ニコライ2世へ納められたバカラ・エルベフシリーズ(製造:1890年-1920年)は現在でもコレクターが多くヴィンテージバカラとして当店でも高値で買取致しております。
現在でも王者のクリスタルと言われるバカラですが、ルイ18世やニコライ2世だけでなく、エジプト最後の王・ファールーク、サウジアラビア国王ファイサル、モロッコ・ムハンマド5世、シャム(タイ)・ラーマ国王、インド・マハラジャ、アメリカのルーズベルト大統領やJ.F.ケネディ、そして日本の皇室も菊の文様が施されたテーブルセット一式を発注され、納められています。
バカラの技術と信頼性
250年に渡り各国の王侯貴族に愛され続け、バカラの成功と不動の地位へと登り詰めたのは、1823年、5代目当主に就いたゴダール・デマレ氏の理念を今日まで貫き通し、技術の継承により裏付けられています。ゴダール・デマレ氏は「バカラ社の未来は製品の品質向上と職人の技術次第。最高の素材と技術と継承」と言い、そのために高品質の材料調達と最高の技術者の育成と保持が徹底されました。また、芸術面にも力を入れ、最高品質と芸術の融合がその後3世紀に渡って受け継がれ、王侯貴族だけでなく人々に広く愛される由縁となっています。また、クリスタルガラスの欧州規格では珪砂、カリウム、ソーダ灰、酸化金、酸化鉛の配合で作られています。
一般的には鉛の含有量が上がるほど光の透明度や屈折率が高くなり、また比重が大きくなるとともに打音が澄んで余音が残ります。このため、特にワイングラスなど工芸用では酸化鉛が多いものが好まれますが、その実現には、溶解・成形・徐冷・加工などの高度な製造技術や、鉄分など不純物の除去や他の混合物の配合など全体的な化学組成の調整が重要になり、一概に鉛の含有量が高ければ良いという訳ではないそうです。(ウィキペディアより)
1971年にアレテ(行政命令)が発布され、EC(欧州経済共同体)全域で定義されたクリスタルガラスは、光の屈折率がnD1.520以上、酸化鉛含有率が24%以上とされる中、バカラの酸化鉛含有率は30%と言われています。日本の江戸時代から明治時代に製造されたアンティークの切子は欧州のクリスタルをモデルに製造されていましたが、酸化鉛の含有率は34%と高く、手で触った感覚にごく僅かに滑り感があり、バカラの製品にみる、見た目にも触れた感じも全てにおいてクリアな感覚に感動した事を思い出します。
また、フランス大統領より与えられる称号、通称M.O.F(フランス最優秀職人)を50人以上輩出し、現在でも二十数名が在籍しているそうです。このM.O.Fの称号のレベルに達するまで少なくても20年以上掛かるといわれ、技術者の日々の努力の積み重ねとその技術者を保護するバカラ社の姿勢は5代目ゴダール・デマレ氏の掲げる理念が現代にも生き続け、商品に対する信頼と実績が今日のバカラ製品を通して手に取り感じることが出来、バカラ製品に出会う度に感動があります。