WedgWood/ウェッジウッドのミニ知識
ウェッジウッドの創業と歴史
創業者ジョサイア・ウェッジウッド
英国陶工の父と讃えられるジョサイア・ウェッジウッドは、1730年イギリススタッフォードシャーで、チャーチヤード工場・製陶業の家系で陶工トーマスとメアリー・ウェッジウッドの末子第13子として生まれました。スタッフォードシャーは良質の粘土と石炭が産出される地で、陶工の多い地域なのだそうです。9歳の時に父トーマスが亡ったことにより学校を中退し、長男が受け継いだ工房で陶工見習いを始めます。12歳の時に天然痘を患い、右足に後遺症を負ってしまいました。そんな障害をもろともせず本格的に陶工として修行入りするのは14歳だったそうです。
19歳の時に長兄の下での修行が終了し、ジョサイアの名は陶工の間で既に優秀な技術者・研究者として知れ渡っていました。
22歳の時ジョン・ハンソン、トーマス・オルダースと共同経営、工房「ハンソン&オルダース」を設立し2年間程経営に携わります。
1754年24歳の時に、当時イギリス・フェントンで最も偉大な陶工で「マスターポッター」の称号を持つトーマス・ウィルドンの若手共同経営者として入り、ビジネスを修得していきます。そしてアゲートウェアやクリームウェア、新しい釉薬を始め、多数の研究を行います。
彼は「作品の胎土、上釉、色、形を絶えず改良していこうと試みるとき、私たちを取り巻く大地は限りなく広がり、良い土は豊富にあり、労を惜しまず努力する者には、その苦労に報いる充分の恵みがある」と残しています。彼の多くの研究が後のウェジウッド繁栄への布石となり、研究に題する姿勢は拡大していく事業の礎となり、現代まで継承され続けています。
1759年29歳の時に、叔父のジョンとトーマスからバーズレムにあったアイビーハウス工場を借り、後に独立。遂に「ウェッジウッド社」を設立します。また同年、カリフラワーウェア焼成に成功しました。カリフラワーを模したティーポットやC&Sは大変リアルで可愛らしく、現代で復刻してもらいたいデザインの一つです。
1762年32歳の時、生涯の大親友でビジネスパートナーになるトーマス・ベントレーと運命的な出会いがありました。ジョサイアはリバプールへの出張中に右足を痛め、その時に診てもらった医師を通じ、リバプールの商人で同じ年のトーマス・ベントレーと知り合います。ジョサイアとベントレーは即座に意気投合し、二人は他業種のビジネス経歴でしたが、利益だけを追求する商人ではないベントレーの姿勢と、方や研究熱心で職人魂と進取の気性に富んだジョサイアは、互いに心惹かれ、その後共同経営者として「ウェッジウッド」の礎を築くことになります。
1763年33歳の時、工場をブリックハウスに移転。陶器製造業では革新的なエンジンターン(動力ろくろ)を取入れ、低価格の実用品の大量生産が可能になります。
ウェッジウッドの発展は産業革命時代と重なり、新技術と製造・運搬コストの低減が可能となります。そのため多くの製造業は、安価大量生産を選ぶ経営が主流となりますが、ウェッジウッドは違いました。同業他社よりも高価格帯での販売を主流とし、デザインやイメージ、マーケットで他社との差別化に成功したと言われています。高級品制作の参考資料にも予算を多く当て、デザインの品質向上を志します。
翌1763年34歳で従姉妹のサラと結婚します。彼は家庭を大変大事にしたといわれ、製品開発の際もサラのアドバイスを必ず聞きました。「女性の嗜好に関して彼女のアドバイスなくしては私の作るポットも貧相な携帯でしか作れなかったでしょう。どの些細な作品もサリー(サラ)の賛同がなくては完成しません。」と1767年10の手紙に記されていたそうです。
また、サラとの間に生まれた子供たちは陶工家、社会事業化、科学者、実業家、など多角的な側面を継承し、各分野で活躍します。有名なのは長女のスザンナは、ダーウィンの進化論で功績を挙げたチャールズ・ダーウィンの母親。長男のジョンは王立園芸協会の初代財務長。次男はジョサイアの事業を受継ぎ、ジョサイア2世を襲名し、画期的な美しい素地ボーンチャイナ(牛灰磁器)を完成させます。最年少の息子トーマスは、科学者となり“英国写真の父”や“英国最初の写真家”と呼ばれています。
1765年35歳の時、シャーロット王妃から注文を受けティーサーヴィスを献上します。
ジョサイアは陶芸と芸術の融合を目指し、生涯実験と研究を重ね完璧をめざしていました。そして誕生したのがクリームウェアです。当時、ヨーロッパでも中国や日本の磁器のような白い焼物を作ることは大変難しく、唯一マイセンが磁器の製造に成功していました。
そんな中、ウェッジウッドはエナメルを用いた独自の製法で、乳白色の美しい陶器を作ることに成功し「クイーンズウェア」の名が与えられ、1766年36歳の時に「Potter to Her Majesty:女王陛下の陶工」を拝命することになります。
科学者・実業家としての才能
18世紀当時としては珍しかったロンドン目抜き通りのカティートン通りに最初のショールームをオープンさせ、新しい需要を開拓するためにカタログを作るなど、商品の魅力を伝えるため様々な試みに挑戦します。これはビジネスパートナーのベントレー氏が博学でビジネスだけでなく、芸術に精通した知識階層とのコネクションが役立ち、さらに各国の王侯貴族に対してブランドアドバイザーとして活躍していたことが大いに関わっています。ロンドンのショールームで彼が王侯貴族のあらゆる需要に応えるべく尽力したことによってウェッジウッドは長く王室から庇護を受けることにもなります。また、ロンドンから流行や情報をジョサイアに送り、商品開発上に大いに貢献しました。また、ジョサイアはリバプールから内陸を繋ぐトレント&マーシー運河建設に尽力し、自社だけでなく地域の発展に寄与したそうです。この工事は1766年から1777年までかかり、ウェッジウッドなくしてこの運河建設の成功はありえませんでした。
1768年38歳の時、障害を負っていた右足を切断します。そんな中、スタッフォードシャーで長年「エジプトの黒」として知られ創られていた粗質で黒い陶器を改良し、完成に至ったのが『ブラックバサルト』です。バルサトとは玄武石のことで、玄武石のような黒い輝きを放つ古代の壺再現の製造に成功します。右足の切断という大変大きな障害にも負けないジョサイアのクラフトマン魂に敬服という言葉が軽く聞こえてしまうほどです。
また、18世紀後半、イギリスではロココ趣味から新古典主義へと移り、芸術家や建築家は古代への憧れを表現し始めていました。
「The Black is sterling and will last forever =黒は真正であり永遠である」 ジョサイア・ウェッジウッド
1769年39歳、ベントレーと共同で「エトルリア工場」を開設します。エトルリアという名前はイタリア中部で紀元前8世紀から紀元前1世紀まであった都市国家の名前をそのまま用い、イギリスのエトルリア工場のある地域の地名にまでしまったそうです。そして、開設した工場の初日に、ベントレーが車輪を回し、ジョサイアが手回しでロクロを引いた「初日の壺」が焼かれブラックバサルトで作られました。艶やかな表面には、ジョサイアとトーマス・ベントレーの名前、そして「エトルリアの初日に制作されたもの」と記されているそうです。
1773年43歳の時、ロシアの女帝エカテリーナU世は愛陶家として知られ、また当時の外交の主な交易品の一つとして陶磁器は大きな役割を果たしていました。そんな中、エカテリーナU世はハスクサービスとディナーセットをウェッジウッドに発注します。そしてジョサイアは、後に世界三大ディナーセットのひとつとして有名になる「フロッグ サービス」をわずか1年で完成させ献上しました。
この「フロッグ サービス」は、1,244景もの様々な英国の庭園風景を一枚一枚手描きで描いた952点から成ります。エカテリーナU世のサンクトペテルブルグ近郊の宮殿には蛙がたくさんいる沼があり、「蛙の宮殿」の愛称で親しまれていたことから、「フロッグ・蛙」の紋章が一つ一つに描かれたと伝えられています。現在はロシアのエルミタージュ美術館に保管されており、拝見することができるそうです。
また、フロッグサービスを献上した同年、数千回の実験を重ねた末に完成されたオリジナル素地「ジャスパー」が発表されます。この素地は更に研究と実験を繰り返し、年々色や種類を増やして行き、その後3世紀に渡り人気を博することになりました。一番有名な色は、"ウェッジウッド ブルー"と呼ばれる気品のあるペールブルー。また、ジャスパー製のジェエリーの歴史は18世紀から有り、ジャスパー・カメオに見られる精緻なレリーフが人気を博したほか、ハイヒールやボタンに使用されるなど当時としては前衛的なジェエリーとしても愛され続けてきました。
1786年56歳の時、ジャスパーによる「ポートランドの壺」を制作開始します。
1787年57歳の時、奴隷制度反対を唱え、彫刻家ハックウッドに依頼しジャスパーでメダリオンを製造します。これはアメリカ合衆国議会図書館に記録されていて、奴隷制度廃止を訴えたジョサイアは、"私は人間ではないのか、友ではないのか"というフレーズとともに、跪く奴隷のモチーフが施された「奴隷のメダリオン」を製造し、多くの人に無償で配布しました。メダリオンはアメリカのベンジャミン・フランクリンにも多く渡り、「『あなたの素晴らしいカメオのプレゼント』を友人達に配布したところ、みな(跪き)祈る人の像をじっと見つめて、心を打たれた表情を浮かべます(その像はよくできていますから)」と、ジョサイアへ感謝の意を返信したそうです。
余談ですが、フランス革命へも賛同するなど自身の信念を貫き協力を惜しまない、陶工としてだけではない時代のパイオニアでもありました。また、 科学者としても当時革新的な窯の中の温度を測るパイロメーターを発明し、王立協会(Royal Society)会員という名誉ある役職に選出されたそうです。彼の理念は食器や陶器に留まらず、科学、社会、歴史に大きな役割を果たしていくことになったのです。
1790年60歳の時、「ポートランドの壺」が完成。ジョサイアの探究心とパイオニア精神の結晶であるこの作品のモチーフは、ウェッジウッドの象徴的アイコンとなり、現在でもバックスタンプのロゴでも描かれ、長く愛され続けています。
1795年64歳。ジョサイア・ウェッジウッドはこの世を去りました。彼の傑出した能力と人間性が周囲に与えた影響力は余りにも偉大で、陶磁器産業だけにとどまらない技術者として産業・文化の発展に貢献し、3世紀を超えて現在でも受け継がれています。
ファインボーンチャイナ
先ほども触れましたが、ジョサイアの次男で事業を引き継ぐジョサイア2世は1812年に『ボーンチャイナ』の製造に成功します。陶土に牛の骨灰を混ぜることにより、高い透明性と堅牢性を備えた「ファインボーンチャイナ」が完成され、ウェッジウッドは揺るぎない不動の地位を得ることになりました。ボーン=bone・骨を指し、骨灰磁器とも呼ばれる独自のものでした。通常の磁器と比較すると素地を薄くすることが出来、強度(渕強度)が強いとされています。その質の高さから「ファインボーンチャイナ」と称されるようになったそうです。特に、温もりを感じる乳白色で美しく優雅な印象とは対照的に堅牢性があり他社を追随させない技術革新がありました。ボーンチャイナを代表するシリーズとして現代でも購入可能な「ハンティングシーン」が挙げられます。
ウェッジウッドのその後と現在
Wikipediaによりますと・・・ウェッジウッド社はジョサイア5世まで経営は世襲され、1895年にジョサイア・ウェッジウッド・アンド・サンズ(Josiah Wedgwood & Sons)として会社が法人化されました。
エトルリア工場開設から150年経過し、設備や敷地面積は限界に近づいたため、6マイル離れたバーラストンへの工場移転が決まり、1940年から操業が始まります。この新工場によって、1950年代の生産は建設前の20倍以上に拡大しました。
1960年代に入ると、創業300年以上のウィリアム・アダムス社をはじめ多くの同業者を買収して会社の規模は2倍になります。このような拡大の中、1967年にジョサイア5世が引退するとアーサー・ブライアンが社長に就任し、初の一族外の経営者となり、1970年代には引き続き陶磁器メーカーを買収するとともにキングス・リン・グラス社など陶磁器以外のガラスメーカーなども買収し、業務内容を広げました。
1986年、ロンドン・インターナショナル・グループ(現・SSLインターナショナル)がウェッジウッド社に対する敵対的買収を試みます。これに対抗するためにブライアン会長は、アイルランドのクリスタルガラスメーカーであるウォーターフォード・クリスタル社をホワイトナイトとし、同社との合併を選択しました。これにより、ウォーターフォード・ウェッジウッド社が誕生し、ウェッジウッドはその傘下に入りました。
ウォーターフォード社は同じ食器メーカーであり合併によるシナジー効果が強く期待されましたが、ウォーターフォード社のリストラによる経営の停滞などからすぐに十分な効果は出ませんでした。しかしウェッジウッド社は1995年に低価格の硬質陶器を発売するなどの戦略を取り、陶磁器メーカーとして世界のトップシェアを争う存在であり続けています。
2009年1月5日、アイルランドの本社はグループの中核である英国とアイルランドの子会社について法定管財人による管理を裁判所に申請し、事実上経営破綻しました。
このニュースは記憶に新しく、リーマンショックのおよそ3ヶ月後だったゆえに世界にさらなる衝撃を与えました。
しかし、ウェッジウッドという企業の歴史と製品の確固たる信頼性は失われることはなく、同年3月26日には、ニューヨークを本拠地とするKPS キャピタルパートナーズ社によって設立された新会社WWRD Holdings Limitedが、ウォーターフォード ウェッジウッドplc(ウォーターフォード・ウェッジウッド グループの全ての子会社を含む)の特定の資産を買収したことを発表されました。 2013年より日英ゆかりの貿易商社コーンズ・アンド・カンパニー・リミッテッド社が業務用シリーズと小売用シリーズ全アイテムの販売ライセンスを取得し、日本で販売されている模様です。
また、2015年7月にフィンランドを拠点とするフィスカース社はWWRD社を買収し、ウェッジウッドはフィスカース社の傘下に入りました。フィスカース社は1649年フィンランド・フィスカス地域で創業された350年もの歴史をもつ刃物メーカーですが、陶磁器のイッタラ(iittala)やアラビア(ARABIA)、ロイヤルコペンハーゲン(RoyalCopenhagen)など北欧を代表するブランドを傘下に扱う企業です。このことによってウェッジウッド社はジョサイアの理念を今後も継承していくことが可能になり、またイギリスのRoyalWarrantにふさわしくラグジュアリーブランドとしてヴェラ・ウォンやジャスパー・コンラン(テレンス・コンラン卿の御子息)など著名なデザイナーとコラボレーションすることによって、歴史と革新の融合する企業理念は存続され、私たちの日常の喜びを提供し続けてくれます。3世紀にわたる歴史だけでなくこれからもウェッジウッド社が産み出す製品やニュースから目が離せません。